ネットワークは電気羊の夢を見るか?

―仮想現実社会とは―

愛媛大学工学部情報工学科 助教授  森井 昌克

(本文は1995年5月に発行された四情懇ジャーナルに掲載されたものです)


平成7417日付けの某新聞紙上で、インターネット上で「ネットワーク仮想都市」を構築し、企業や団体、大学等研究教育機関、さらに住民の募集を始めると報じられている。パソコン通信でもアバターと呼ばれる2次元人形をディスプレイ画面上で動かし、仮想的な社会をシミュレートするゲームが数年前から始まっており、「インターネット」の上でも概念的に同様な試みがすでになされている。しかし、この「ネットワーク仮想都市」が注目される点は、現実社会とのリンクが大きいことにある。すなわち、ネットワーク上に、例えば商店、学校、銀行、映画館、美術館等を設置し、住民が商店ではオンラインショッピングを行い、学校からは教育を受け、情報を引き出し、銀行からはオンラインバンキング、映画館や美術館では映像音声情報を鑑賞するのである。住民は現実のユーザー自身であり、取り引き等は現実の取り引きに代えられる。また、大学をも誘致する計画があり、すでに実験が始められようとしているオンラインユニバーシティ(仮想大学)の構想も採り入れようとしている。

地域、国家、政府や企業のそれぞれの思惑やしがらみ等の様々な要因から、理想的な現実都市を構築する.ことが必ずしも容易でない現在、現実がSFを越えた感のある、この「ネットワーク仮想現実」に寄せる期待は大きい。しかしながら問題点が全くないわけではない。特に都市の基盤を成す仮想社会を築く上で、器の問題とその中身の問題は重要である。器とは情報通信基盤、中身とは情報通信倫理であり、それぞれハードウェアとソフトウェアの根幹と考えられるからである。情報通信基盤の整備という言葉をよく耳にするようになってから久しい。確かに光ファイバケーブルを一般家庭まで引き込む、あるいは戸外での光ファイバケーブルからのハブとして同軸ケーブルで引き込むことにより、高速大容量の通信を可能にすることができる。しかしながら、この5年以内に、特に四国地方津津浦浦の中小企業や一般家庭に光ファイバや同軸ケーブルが引き込まれるか、というと疑問を持たざるを得ない。では、それまで一般家庭や中小企業はネットワークと無縁とならざるを得ないのであろうか。答えはNOである。明治時代以来、120年にわたって敷設されてきたメタルケーブルは日本全国隅々を網羅している。その総資産額は100兆円とも言われている。このメタルケーブルを最大限に利用してネットワークを構築することは十分現実的である。また、メタルケーブルの性能を最大限に引き出し得る技術が一般化してきた。さらに必ずしもネットワーク社会において高速な通信が要求される場面は多くない。ビデオ・オン・デマンドだけがネットワーク社会、マルチメディア社会の象徴ではないのである。このような背景のもとで注目されているのが「インターネット」である。画像や音声を送受できる世界規模のパソコン通信というイメージが支配的な「インターネット」であるが、その本質は通信路に信頼性を期待しないことにある。すなわち、低速な回線であっても通信路にその性能を依存しないで、コンピュータによるデータ処理によって、回線の性能を最大限引き出し得るところにある。また、「インターネット」は国際標準に従っていない。これは秒針分歩に進む通信、およびコンピュータ技術を貧欲に取り入れ、現在、使用可能な技術で最大限の性能を常に得ようとする結果である。もちろん、調整機関は存在し、勝手なプロトコルが通用するわけではなしRFC(Request For Comment)というドラフトペーパーに相当するものが存在し、適時、規格として採用される。また、「インターネット」はネットワークとネットワークを接続する緩やかな手続き(規則)の集合である。個々のネットワークやその端末および使用法を何ら規定するものではない。いわば、個々のネットワークを文化や風習が異なる国家に例えれば、「インターネット」は国際連合である。以上のような柔らかなネットワークである「インターネット」は爆発的な勢いで世界中に広まっており、今世紀末には、そのユーザー数は2億人に達するという報告もある。この「インターネット」に対する四国地方の姿勢は、5年後、10年後を予想する重要な要素になるであろう。3年ほど前、コンピュータ関係の全国レベルの会議が松山で開催された。その際のパネル討論の議題が「四国はネットワークのブラックホールか?」であった。当時のこの意味は、一部企業や大学、研究所が「インターネット」接続を実現し、盛んに情報交換やサービス、あるいは実験を行っていたにも関わらず、四国地方では大学を含めて接続されておらず、ネットワークを通して、全く見えないことからブラックホールと呼ばれていた。現在、四国地方の大学、高専はかなり接続されたものの一般企業の参加は必ずしも多くない。一部では、現在もブラックホールと呼ばれているが、その理由は、四国外の情報を積極的に取り出しているが、四国からの情報発信が少ないという意味に変わってきている。

もう一つの問題点は情報通信倫理である。倫理とは、道徳の根幹を意味するが、ここでは、ネットワーク社会での生活方法と解釈していただきたい。ネットワーク社会は新しい概念であることから、従来の因習に捕らわれないコミュニケーションが可能であり、大きな成果が期待される反面、新たな問題点も生じようとしている。例えば、肯定的な成果は電子メールの効用である。情報を円滑に共有、処理するためのネットワーク構築の遅れは、ホワイトカラーの生産性を大きく劣化させている。電子メールは情報を共有するための有効なツールである。まず、電子メールはメモのように気楽に使え、手渡せる。すなわち、手紙(原始メールと呼ぶ人もいる)のように古いしきたりや慣習に縛られない。電話のように相手がいなくても意志を伝えることができる。さらに同時に多数の相手とやり取りができる。結果として意志決定に至るスピードが大幅に上がる。会議の議事録などもその場で作成し、ネットワークに流すことにより終了後即、確認でき、必要ならば加工することもでき、データベースに登録することによって、多数の人の共通の情報として、新たな生産性につなげることが可能となる。トップや管理職は携帯情報端末を利用することにより、いつでもどこでも部下に指示を与えることができ、また逆に直接、下からの情報を吸い上げることが可能となり、組織の機動力が大幅に向上する。このように電子メールの効用は非常に大きいが、その理由は、加工、再利用が可能ということ以外に、メモのように簡単に書け、それを簡単に送ることができるということにある。手紙で送る、ましてや上司に手紙を送る心理的圧迫は否定できないであろう。他方、簡単にメールを送れるということはトラブルの機会を増加させることにも通じる。すなわち、ネットワーク社会では既知の仲であっても、面識が無く、相互に意識のずれが生じる場合がある。特にネットワーク社会と現実社会の共存時期への過度期である現在、その可能性が高い。例えば、現実社会において共通の文化の上では比較的楽にコミュニケーションがとれ、相手が異文化に属する場合も、互いの文化を認知、理解することにより円滑に行うことが可能である。ネットワーク社会では確立した文化というものがない現状である。特に「インターネット」では、個々のネットワークが独立しており、必ずしもパソコン通信のように大きな権限をもって統一的に管理されているわけではない。このような状況の中で、ルールやマナーが盛んに議論されているが、少なくとも実社会以上に他人を他人として認識する注意が必要であろう。