インターネット上のある掲示板でひとつの事件が起こり、新聞や雑 誌、テレビでも取り上げられました。その事件とは京都大学大学院 の学生が女性への性的暴行をあおる内容のホームページを開設して いた事実を匿名の一人が掲示板に批判したのです。7月15日の午 後に書かれたのと同時に多数の批判が掲示板に殺到し、翌日にはそ の掲示板に1万件以上の投稿がなされました。合わせて、京都大学、 警察、マスコミ等へのこの件に関するメールが多く投げられ、特に 京都大学へは、この学生が大学内からホームページを作成、記述し ていたことから、処分を求める抗議メールが殺到したようです。京 都大学では、早々の16日に学生から事情聴取し、「本人の空想に 基づく架空の内容である」とした事実関係の確認し、厳重注意する とした謝罪文が発表されました。京都大学の敏速な対応は、ネット ワーク社会では必須であり、模範とするべきですが、迅速な対応を 進めようとしたが上に、事実関係の調査の不備を指摘する声も聞か れました。
この事件はネットワーク社会の様々な問題を露呈しました。その一 つが、「個人、あるいは私人」と「プライバシー」の問題です。一 夜にして一人の個人がネットワーク社会において大きな話題になり、 本人も知らない間に、いわゆる有名人になる可能性があるのです。 本件の場合は、モラルに大きく反した、しかも違法性も考えられる 内容でした。しかし、ほんの些細な内容から本人が認識しないとこ ろで、議論が一人歩きし、また議論の内容とは切り離されて本人が 批判される場合があるのです。ネットワーク社会では、一般に「晒 (さら)される」という言葉を使います。現実の社会では、一時、 一箇所に数多くの人を集めることは非常に困難です。ネットワーク 社会ではそれが可能であり、時間と距離が圧縮されていることから、 現実の社会以上に集団意識の大暴走が起こり得るのです。集団意識 とは、共同体の大多数の共通意識のことです。現実の社会では、無 名の個人が有名になるまでには、長い時間もしくは広い空間(地域) に影響を及ぼす力(パワー)が必要でした。20世紀の産業革命は 交通手段の発達を促し、広い空間の中の意識を左右できる可能性を 生み出しました。特に20世紀後半の放送という手段はそれを顕著 にしたわけです。ネットワーク社会では、その究極な形を現実化し ています。一瞬にして多くの個人の意識に問いかけることが可能と なったのです。集団意識の暴走はプライバシーの在り方をも変えよ うとしています。「プライバシーを暴く」という言葉があるように、 プライバシーとは私生活そのものであり、「暴く」という積極的な 行為を行わなければ侵されることはなかったのです。ネットワーク 社会では、この敷居が下がり、暴くと言う積極的な行為がなくとも 個人のプライバシーを露呈することが可能になりました。現実の社 会での、プライバシーを侵されないという受動的な姿勢から、プラ イバシーを守ると言う積極的な姿勢がネットワーク社会では要求さ れるのです。ウイリアム・ボガードの著書「監視ゲーム プライヴ ァシーの終焉」では、従来の侵す者と侵される者との役割が崩壊し、 ネットワーク社会のすべての人がプライバシーを同等に有し、また 同等に侵すことができることを述べ、プライバシーを「個人情報へ のアクセスをコントロールする権利」と定義しています。